東北の風土をどう考えるか、大変難しい問題でありますが、土地に関する仕事をしている立場上、ある程度考えておかなければなりません。風土といっても、そこに住む人々、気候、土壌、地形、言語、心情、歴史など様々な切り口があり、しかもひとつひとつ分離して論ずることも困難です。これらが混然となっている状態を風土というのでしょうから。
今日はひとつのたとえ話をしてみます。成功するかは保証できません。例えば、外国から来た人、特にキリスト教徒に対して東北を説明するのに案外理解されやすいかもしれません。新約聖書によればナザレのイエスは最期にゴルゴダの丘で磔刑に処されるわけですが、このような事実はローマの記録には載っていません。古代ローマ帝国は属州の統治に関してかなり詳しい記録をとって主都ローマに報告していましたから、死に値するような事件が取り扱われなかったことは不思議な感じがします。一方同時に刑を受けたバラバに関する記録があることがさらに不可解さを増長させます。
ここからは私見になりますが、ゴルゴダの丘の劇的な場面は後世のエバンゲリストの創作ではなかったかという考え方です。これから布教に向かう原始キリスト教徒にとって、イエスが劇的に扱われることが重要だったのではないか、だからこそ上記のような死に方を演出したのではないか。実際は法廷にかけられることもなくエルサレムの民衆にリンチを受けただけのことではないか。以上は前置きでここからわたくしの屁理屈が始まります。ナザレはガリラヤの小さな町です。イエスは人生のほとんどをこの地方で暮らしています。そしておそらく宗教活動をしていた。聖書に出てくる重要な場面はほとんどガリラヤの風景の中で起こったことです。この地方にはシナゴーグもあり、そこで説教したと書いてありますから、本来はユダヤ教に属していたと考えられます。有名な善きサマリア人についてもガリラヤ地方のどこかで設定されたものでしょう。イスラエルとガリラヤの関係は微妙であったと考えられます。ともにユダヤ教でありましたからユダヤ人としての同胞意識はあったと思われますが、イスラエルはガリラヤを一段低いものと考えていたようです。サマリア人はユダヤではありません。ユダヤ人にとって彼らは異邦人でした。そういった環境のもとに善きサマリア人の場面が描かれます。街道に倒れていたのはガリラヤ人だったかもしれません。そこを生粋のユダヤ人が通りがかりますが、見て見ぬふりをして立ち去ります。しばらくするとサマリア人がとおりがかり件のごとく親切に介抱します。
ここまで来て皆様にはわたくしの意図するところが何となくわかってくれたと思います。イスラエル、ガリラヤ、サマリアの関係は、大和朝廷に属する人、東北人、アイヌ人の関係と並行しているということです。東北人といわないで本当は蝦夷といいたいところです。大和朝廷と書けば蝦夷という方が整合性があるでしょう。ただ蝦夷が何者か、アイヌ人との異同はどうかなど、これから明らかにしなければなしませんので。
今回少し長くなりましたのでこれで打ち切りにし、時間を置いて次に進みたいと考えます。日本国内のことを何故パレスチナにあえて似ているなどといったのか、それはある意味、日本の中の問題として考えるのではなく、いったい日本は統一された国家なのか、東北人は日本人なのかまで含めて考えてみたいということがあるので、こういう内容にしたわけです。この点についても順次お話ししてみたいと考えています。土地の問題は人の問題です。ですから人はどこから来て、どこへ行こうとしているのか明らかにしなければ土地の問題は解決しません。
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